自分中心になる♪ [本源]
最近、とみに他者、外界への関心が薄れ、その分、自分への関心、意識が高まっているようです。
これは、アーティストについても同じで、唯一敬愛するアーティストとの繋がりも希薄になりつつあるのかな、と感じるところがあります。
しかし
二年と一日前、こういう記事を書きました。
アーティストとの距離
好き嫌いを大きな要因とはしますが、すくなくとも、楽曲を「評価」し、提供者にアーティストとしての敬意を持ち、そして、人柄に共感と愛情を感じ、ファンという立場を自ら意識するにいたるのだろうと思います。
そうしたとき、楽曲の提供者であるアーティストは、関心と敬愛の対象ではありますが、偏愛の対象ではありません。
そのへんの割り切りというか、適切な認識を保つこと、これは、時として意外に難しかったりします。
楽しむこと、夢中になること、と、身近に感じすぎる錯覚との間(はざま)に、この老人も漂います。
楽曲の提供者であるアーティストに共感し、関心と愛情を持ちつつ、精神的に適切な距離感を保つことが肝要であろうかと思います。
やはり、そのアーティストから提供される楽曲、それは、公演であろうと、録音の再生であろうと、その楽曲がアーティストに優先するものであろうと思います。
楽曲を、語録と読み替えても同様なことが言えると思います。
したがって、現実と妄想の違いを明確に認識しながら錯覚を排除し、健全に妄想を楽しむことが、私たちファンの在り方かと観じるきょうこの頃でございます。(^-^)ゞ
物理的距離感を遠く正しく保つことは当然ですが、精神的にも、近しい一体感を感じつつも、適切な一定の距離感を保つことは妄想の原点であろうかと♪
2006-08-30 23:54
だから、希薄になったのではなく、無意識的に物理的距離感をく正しく補正した、と。
これでいいのだ、という思いです。
ただし、これを書いたときはファンであった。
今は何なんだろう?
パラノイア、とか、パラサイトとか言いつつ、それは冗談♪
何だろう?
少なくとも、他に心惹かれるアーティストはいないので、心変わりでも何でもなく。
そう。
あたかも、空気の如く。
CDが解き放たれば、自然にそれを購い、そして日々聴き続ける。
歌手 倉木麻衣 さんの楽曲を聴き、人となりに触れ始めて、変わった私がいる。
自分を意識し、自分への関心を深めた。
人の見る自分ではなく、自分、お天道様を意識した自分。
それで、心と体が少し変わった。
変わった、というより、垢を少し落として、本来あるべき自分に近づいた、というか。
当初はアーティストとの妄想的距離感が日々縮まっているように感じたのが、自分の変化がある点に達した時、今度は近づきすぎた錯覚を修正し始めることになる。
その結果、アーティストとの距離、懸隔を正しい位置に再構築することができた、ということになるのかな。
誕生日が同じということに、客観的に全く何の意味もないことは、知った当初から認識していたが、認識した上で気分的に嬉しい自分がいる☆
加熱せず、冷めず。
しかし、だからこそ永続性が保てるような気がする。
このようにして、静穏にして不易ということ、感じられるようになるのかな?