昔のいじめ等 [地域情報]
昔のいじめは、のどかだったなあ、と。
それはそれなりに大変ではあったものの。
私の家は病により、極貧ほぼ無収入、生活保護を受けていました。
極貧は地域社会において周知、識別・区別されていました。
保育園や幼稚園には行かず零細農業に勤しみ、小学校に入学した時点で区別児でありました。
当時、特別扱いされているのを、なぜか嬉しく思っていた浅はかさ(笑 文房具を買うお金もないので、帳面や鉛筆が市から配給されます。)。
そんな中、容姿に起因して、ある女児が、容姿を揶揄する言葉で「いじめ」を受け始めました。
私は、本当に心を痛めながらも、その揶揄に心情的に加担しました(会話や接触を避ける行為)。
可哀相だと思いながらも、自分も仲間外れにされるのが怖くて、皆に同化していました。
このことは、心の傷として、今も残っています。
そういうふうにしながらも、やがて極貧の私も本格的な「いじめ」の対象となります。
つぎはぎの服しか着ないし、家にはテレビも無くて話題に入れないし。
「いじめ」でなくても当然というか、構造的に仲間外れにならざるを得ません。
したがって、意識的な仲間外れはもはや無意味。
また、揶揄とかでもなく、シンプル、直接的な暴力が多かったように思います。
卑怯な「持ち物隠し」や、「陥れ」も皆無ではなかったが、稀でした。
暴力も、「騙し討ち」や、「集団暴行」も多くはなく、大勢が見物する、1対1、or1対2の闘いです。
別段理由はないので、喧嘩ではないと思います。
幸いにして、1対1や1対2では簡単には負けにくい私でした。
また、お互い「加減」というものも知っており、怪我させることが目的ではなく、ましてや殺意はない。意地のぶつかり合い、です(小学生です。)。
あまり無いと言った「騙し討ち」と「集団暴行」をダブルでくらったことが一度あります。
教室から廊下に出たとたんに、大勢から「殴る、蹴る」の集団暴行。
瞬間、何が起こったかわかりませんでしたが、すぐに、こぶしを作って両腕を振り回して反撃。
潰されるといけないので目は瞑っていましたが、相手が多いものだから、意外に沢山ヒットしました。
ボコボコにはなったものの(痛い)、倒されることはなく、1分程度で双方痛み分けの形で闘いは終わりました。
その時は数十人もいたように感じましたが、もしかしたら5~6人しかいなかったのかも知れません。
落ち着いて周りを見たときには、もう誰もいませんでした。
誰も私を殺そうとか重い怪我を負わそうと思っているわけではないなと気付きました。
そこは最近の「意図的虐殺系のいじめ」とは違います。
とは言え、不意打ちで焼きを入れようとする意図は感じられたので、この日から、私はより注意深くなりました(小学生です。)。
とともに、こちらから個別に先制攻撃を加えるようにしました(小学生レベルの)。
後ろから突然殴るのは、さすがに矜持にもとるので、後ろから近づき名前を呼ぶようにしました。
振り向いた鼻面を殴ると、面白いように鼻血が出ます。
幸い、昔は純朴な子どもが多かったので、血を見て逆上、殺人学徒に変貌するものはいなくて、だいたい泣き出します。
私も流血には冷静な小学生だったので、逆上しません。
笑って「悪い悪い」、と言って、終わりです。
これはイケる、と。
自分自身の護りにも十分注意しつつ、日数をかけてことを続け、数人への抗議が終了したところで、学校の空気が変わってきました。
途中、顔を縫う怪我もありましたが、麻酔無しでの縫合数日後の糸抜きにも涙を流さずに耐え抜いた私は、自分では「男になった」ように自覚するよい経験でした。
椅子に掛けた状態で麻酔無しで顔を縫うのは、かなり痛いです。
滅菌・消毒はしてほしかった・・・。
学校近所の小児科医(学校医だった)に縫合抜糸してもらったので、今も顔に傷が残っています。
男の顔に傷を付けたと言って父親が激怒しましたが、やられたのは私の不覚であり、学校も医院まで連れて行ってくれた誠意があったので、私は全て水に流しました。
(そもそも、学校も警察も行政も相手も、対応してくれるはずがない。小学生です。)。
復讐もせず、水に流しました。これは不意打ちではありましたが、1対1であり、喧嘩「的」な要素もあったのです。
むしろ、目を潰されなくてよかったと思っていました(小学生ですから。)。
こんなことがあっても、私への「いじめ」と、私の「抗議」は、いずれも学校側が気付くことはありませんでした。
あれで気付かないのも学校としては不自然なので、教育的配慮の黙認、プラス民事不介入だったのかもしれません。
これらのことを経て、私は一時、狡猾な正義漢になっていきます。
古き良き、そして懐かしい、子ども時代の「いじめ」でした。
余談ですが、中学校に進学すると、帰宅組(全校全学年で二人だけ)で拳を鍛え、相方ほど強靭な拳の持ち主ではなかった私は、石を殴り過ぎ内出血して拳が腫れあがり、医者にかかるという体たらく。
中学校では、匕首(ドス ではなく、あいくち)を首筋に突きつけられることもありましたが、殺意がないことは判っていたので、冷静に(多少強がって)対応でき、ことを収めました。
中学校は不良中と呼ばれていましたが、暴力は多いものの、粗暴ながら陰湿ではない、さっぱりした校風でした。
しかも、私たちの学年は頭(あたま:後に生徒会長となる奴)が「ひとかど」の人物であり、それを取り巻く我ら側近も、品行方正、成績優秀。
刃傷沙汰も一切なくなり、三年生の時には、なんと市内一の有良校となり、修学旅行が復活したのです♪