倉木麻衣さんの歌詞など [倉木麻衣]
現代日本を代表する国民的歌唱系表現藝術家(歌手と言われることもあります。)倉木麻衣師の新譜34th SINGLE『SUMMER TIME GONE』の歌詞は今ひとつ平凡というか、ステタイというか、あまり切れ味、独創性が感じられなくて、逆にそれが懐かし新鮮の楽曲と調和して、うまい味を醸しているとも言えるわけです。
でも、やはり、歌詞としては、以前ほどの「味」を感じない。
昨日、コナンの「あと曲」で披露された「Tomorrow is the last Time」、悪くは無いけど、これも「味」は感じなかったです。
それは、曲にではなく、歌詞に。
勤務先から自宅までの週一回の長距離ドライブの眠気覚ましの1枚として、「Wish You The Best」の逆輸入盤(半額)を西友ストアで購いました。
奥さんがユーミンのアルバムを買い物カゴに入れたとき、そっと潜り込ませたのです(当然、レジのところで奥さんにバレました。)。
アイドル系歌手の軽い歌謡曲群だと思って、怪談落語集などと一緒の眠気覚まし扱い。
でも、聴いてみて、そうじゃないことがわかりました。
妙な味の歌が多かった。
特に、「冷たい海」は奇妙なよい味を出していて、聴くほどに惹かれていきました。
他の曲も、最初はそれほど無かったのが、半年間の週末往復で聴くうちにどんどん惹かれていきました。
曲もさることながら、歌詞が奇妙、つまり新鮮。
わけわからん歌詞に惹かれるっちゅうこっちゃ。かな?
最近、なんか歌詞が普通やねんなぁ。
「anywhere」はよかですね♪
歌詞の意味はよくわからんけど、あまり普通ではない(笑)。
曲調も軽くて好き。
軽いって言うのは、軽快・軽妙ということでもあるが、気持を明るくさせてくれる、あ・軽い。
爽やかな風を感じさせてくれる軽快な疾走感はお散歩ランにも最適。
いっぽう、3年前の、「Season of love」はとてもとても重い楽曲だけれども、これはとてもとてもとても好きな楽曲であります。
荘厳、悲壮にして神々しいものを感じます。
文学に喩えれば、欧州的全体小説から日本的私小説への転換を図られているのかな。
ロシア文学は当然邦訳で読ませていただきました。
訳者は、当然、米川正夫 先生です。
ドストエフスキーを想う時、自然に「米川正夫」という言葉が浮かぶほどです。一文字も違えず。
私、単品ではあきたらず、ドストエフスキー全集を購いましたものね、アルバイト学生の分際で。
当時、「地下生活者の手記」はこの全集でしか読めなかったような気がします。
「悪霊」にのめり込みすぎて、気分的におかしくなりかけた(笑)。欝っぽく。
でも、サッカーの鍛錬厳しく、欝にはなり切れなかった。
同じロシア文学米川訳でも、トルストイは肌に合わず、定番の「戦平」、「アンカレ」、「復活」、「イワンの馬鹿」、「愛のあるところに神あり」くらいしか読んでいなくて、当然全集は購っておりません。
いっぽう、私小説と言えば志賀直哉。「暗夜行路」は全青少年の定番でありました。
「小僧の神様」等々。
当然、若者は皆、武者小路実篤は読む。私も然り。
しかし、日本の作家の全集を揃えたことはない。
夏目漱石は中学時代に旺文社文庫は全部読んだ気がするが、全集は揃えていないのです。それほど思いいれもなかったのです。
野間宏は、高橋和巳からのつながりで読みましたが、「暗い絵」(倉家ではない)は兎も角、「青年の環」は手強い。
これは、私はドストエフスキーを感じました。
長く、重く、手強く、これぞ「小説」と思いました。そしてまさしく「全体小説」也と。
私小説って「小説」なのだろうか?とさえ思うのです。
倉木麻衣さんは私小説が似合うのだろうか?